たぴ岡文庫

今宵も語る、どこかの誰かの物語

小説「騒がしい」

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 私は独りだった。

 母は大学の教授、父は政治家。兄は外科医、姉は名門大学の首席。きっと姉はもう少しで弁護士にでもなるのだろう。優秀な家族だった。私を除いて。近所にも家族は有名だった。あの家の奥さんの教育理念はどうだとか、あの家のご主人のマニフェストはどうだとか、あの家の長男のオペはどうだとか、あの家の長女はどうだとか。その分私の悪目立ちもあった。腫れ物に触るような、そんな視線が嫌いだった。バレないようにしていたのだろうけれど、それが私に鋭く刺さってきて。私は本当に存在していいのかすら疑問に思うほどだった。家での居場所もなく、この地域にも嫌われて、私は独りだった。

 学校ではクラスの一番後ろ、窓側の席でずっとノートにシャーペンを走らせていた。少しでも両親に、兄弟に、私も家族であると認めてもらいたかった。褒めてもらえなくてもいい。触ってもらえなくてもいい。だけど、目を合わせて欲しかった。この学校で一位をとれば、きっと。私は誰が何をしていようと、クラスの隅っこで教科書を読み込んでいた。教室のど真ん中で女子たちが喚いていても、窓から見えるグラウンドで男子たちが走り回っていても、集中力を切らすことなく勉強に励んだ。友だちもいない、頼ることの出来る教師もいない、私は苦しかった。

 きっと私に話しかけてくれた人がいたはずだったけれど、何も聞かなかった。本当は助けて欲しかったし、止めて欲しかった。だけど努力をやめてしまえば、私は本物の家族になれない。友だちが欲しかったし、買い食いなんていうものもやってみたかった。カラオケで声がかれるまで歌ったり、誰かの家でホームパーティーをして、そのままお泊まりなんてこともしてみたかった。けれどそんなことよりも、何よりも私は家族に私を見て欲しかった。私は寂しかった。

 幾度となく、左手首を切ろうとした。首を吊ろうとした。川の激しい流れに身を投げようとした。けれど出来なかった。死んでしまったとして、誰が悲しむだろうか? 両親は出来損ないの私を家族とも思っていない。兄には妹がもう一人いることをどうしても隠したがっているのだから。つまり兄は私という存在を知らないのだと思う。どうせ居候だとか、破産した知人の子を預かっているだとか、くだらない嘘をつき続けている。姉もきっと、私の自殺を訴えることはしない。悲しまない。学校にも私を認識している人なんていないのではないだろうか。恋人なんていたことないし、友だちすらいない。もしかしたら教師は私のことを感心して見ているかもしれないけれど、泣いてくれる人なんていない。きっと私は死んでも孤独。

 だから全部を巻き込んでやることにした。家族が寝静まった頃、私は動き始める。今まで毎日欠かさずに書いていた日記だけを、外のわかりやすいところに落としておく。これできっと誰かが寄り添ってくれる。悲しんでくれる、泣いてくれる。それから、車庫から持ってきた重たいプラスチック容器を持ち上げて、家の周りにその中身を撒いてやる。それから、どうしよう。家の中にもあった方が、きっといいよね。両親の部屋、兄の部屋に姉の部屋、そして私のための屋根裏部屋の周りにそれをたっぷりとかけた。私は小さく笑った。

 逃げ場はなくした方がいい。玄関から始めよう。名残惜しいが、この屋根裏部屋とももうお別れだ。私に友だちがいたとしたら、この部屋かもしれない。なんとなく「行ってらっしゃい」と言われている気分になる。ありがとう、と呟いてから玄関へと向かう。早く始めないと、何かを察して逃げる可能性だってあるから。私は妙に冷静だった。

 大きく深呼吸をして、マッチを一本擦る。火がついたことを確認してすぐに足元に落とす。一瞬でぶわっと燃え上がり、美しい赤が猛っていく。火災報知器のうるさい音と、家の悲鳴で四人が起きてくる。ごうっと炎があがり、私を包む。温かい。私を歓迎してくれるんだね。声を上げて笑いながら両手を広げる。火炎に苦しむ母の甲高い叫びと、自分だけでも逃げようと必死な父の怒鳴り声。困惑する兄の滑稽な表情と、絶望する姉の汚い泣き顔。もう逃がさない。ほら、私を見て。私を認めて。私を褒めて。

 それでも私は最後まで独りだった。

 

さ【騒がしい】幸せなことのひとつ

 

カクヨムさ【騒がしい】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「コマ」

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 まだ幼い少年は、どの壁も黒く塗られている部屋にひとりぼっちだった。あまりにもやることがなさすぎる。彼は大の字になって、真っ黒な天井を見上げ続けていた。

 あるとき、目を覚ました彼は唐突にむくりと起き上がった。いいことを思いついたのだ。遊ぶものがないなら、楽しいことがないなら、自分で作ればいいじゃないかと。どこを見ても黒いこの部屋に、何らかのものを創り出せばいいじゃないかと。

 彼は目を閉じて考える。まずは何を作ろうか。何があれば暇を潰せるだろうか。一度、部屋を見回してみる。面白いものなど何ひとつない、ただの空白だ。いや、黒いから空黒か? くだらないとは思いながら、ひとり自嘲気味に笑う。

 少年は初めの遊びを決めた。

「まず部屋を黒から変えよう」

 パンとひとつ手を鳴らすと、黒かった壁紙は目に眩しいほどの白に変わった。満足そうに頷きながら壁を撫でる少年。この変化を楽しみながら、次は何をしようかと考えているのだ。

「そうだな、ぼくの遊び相手が必要だ」

 その姿に対して言葉をしっかりと紡いでいく少年の様子は、まるで何年も何百年もそのまま過ごしてきたかのように感じさせるものがある。彼は小さく微笑むと、大きく瞬きをした。するとどうだろう、何もなかったはずの部屋いっぱいに様々なぬいぐるみや人形が現れた。

「うんうん、上出来だ」

 彼はかわいらしいおもちゃたちと戯れ始めた。それはそれは、ただの子どものように。

 最初に抱き上げたのは、大きくてもふもふのテディベア。続いて近くにあったあみぐるみを持ち上げると、ふたつを激しくぶつけ合った。「なるほど」と、彼は小さくもらして、テディベアの方を消した。消した、というのは少年の手の中、そこにあったはずのテディベアが一瞬のうちに消滅したのだ。それ以外の表現はできない。

「じゃあ、これでどうかな」

 パチンと指を鳴らすと、おもちゃたちは勝手に動き始めた。

「うん、こっちの方がおもしろい」

 おもちゃたちは互いにぶつかり合っては片方が消えていき、手を取り合えば新しい人形やぬいぐるみが出現していく。小さかったはずのコケシが徐々に大きくなっていたり、柔らかい素材でできていたはずのものが石になっていたり。少しでも目を離してしまえば、この小さな世界の全ては変化する。ここでは少年が全てで、少年こそがルールであるらしい。

 彼は手に持っていたものを落とすと、ふわりと浮いた。先程までと同じように、自分の願いを容易に叶えたらしい。

 彼は上からそれらを見下ろしながら、口許を緩ませる。おもちゃたちの争いごとを見て、楽しんでいるようだった。しかしその争いは一方的な暴力にも見えた。大きくて硬度のあるものたちが勝ち残り、小さいものたちや綿でできたものたちは四隅に隠れているか、もしくは戦いを避けるようにしているからだ。

 弱いものいじめは、見ていて面白くない。少年は腕を組んで考えるような仕草をすると、思いついたように手をポンと叩いた。

「もっとおもしろくしよう。こんなのはどうかな」

 彼はポケットからキラキラと輝く粉を取り出し、その部屋にパラパラと振りまいた。すると粉はみるみる別の物へと変化していく。弱いものたちのもとへ舞い降りながら。ふふ、と小さく笑いながら見守る少年。ひとりの大きなぬいぐるみは立ち上がる。手には、かわいらしいその姿には似合いそうもない剣を持って。

「さあ、もっともっとぼくを楽しませておくれ」

 少年は今しがた始まってしまったおもちゃの戦争を、楽しそうに頷きながら眺めていた。

 

こ【コマ】神々の遊びに使われる人間のこと

 

カクヨムこ【コマ】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「消しゴム」

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 おかしいと思う。クラスのみんなは、好きな子の名前を緑のボールペンで新品の消しゴムの右下に書いて、「おまじないなんだ」なんて恥ずかしそうに笑うけれど、それはおかしい。だってそれってつまり、好きなわ子の魂をそれに詰め込んで酷使する、ってことになるはずだから。だってそうしたら魂が削られていって、最後にはその子が死んでしまうはずだから。

 大好きで大好きで堪らなくて殺したい、と思ったから命を削るの? それとも、好きだとは言ってみたけど、本当は大嫌いで死んで欲しいから嘘をつくの? 私には何も理解出来ない。

 だからって私が勝手に嫌いな人の名前を削っていれば、見つかったときに揶揄われるのは目に見えている。「あの子のこと好きだったんだ、知らなかった!」だとか、「え、意外! 嫌ってるんだと思ってた」だとか、そんなことを言われるに違いない。でもきっと私は仮面をつけてその子たちに笑いかける。それは私が女の子だから。これが暗黙の了解だから。

 同じ幼稚園で仲の良かった友人にも聞いてみた。あのおまじないはどの小学校でも流行っているらしい。なんなら彼女はそのおまじないによって幸せを掴んだひとりなんだとか。

 あの頃は、私たちの間に入れる子なんていないくらいの大親友だった。それが、違う学校に進んだ途端、全て流れて消えた。今はもうあの子が嫌いだ。興味も関心もない。

 一ヶ月に一度だけ、彼女と手紙を送りあっている。その中には今回のおまじないのことも、彼氏ができたことも、初めて手を繋いだことも書かれていた。けれど私は何も感じなかった。それを伝えて何がしたいのか、全くわからなかった。

 紙の上で踊っている炭素の塊は簡単に消せる。それなのに現実のこの世界に浮かんでいる面倒くさい人間関係だの、不安定な感情だの、そんなものはさっとなくせるものではない。

 書いては消して、書いては消して。鉛筆や消しゴムが折れそうになるくらいの力を込めて。でも何も消えない。紙に残った跡を見つめながら、自分の中の感情が薄くなっているのに気付いてしまった。あれもこれも全部、何もかも全て、あの子のせいだ。許せない。許してはいけない。

 だから私は、消しゴムにあの子の名前を書いた。

 

け【消しゴム】結局は何も消してくれない

 

カクヨムけ【消しゴム】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「首筋」

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 素敵な彼氏ができた。

 いわゆる塩顔の彼は鼻梁が美しく、背も平均より十数センチ高い。オシャレのセンスも抜群で、そこらの俳優やモデル、アイドルなんかも軽く凌駕してしまうレベルだと思う。何を着ても似合ってしまうからそう思わされるだけなのかもしれないけど、とにかく見た目がいい。

 勿論、彼の素晴らしいところは外見だけではない。内面だって綺麗なのだ。例えば、一昔前みたいな「女性は三歩後ろを歩け」なんて主張をしたりはしないし、「俺の言うことが聞けないのか」なんて怒鳴ったりもしない。優しすぎるくらい、柔らかく接してくれる。大切にしてくれていると肌で感じる。いつだって笑顔で、自分は今幸せだと教えてくれる。

 ――だからこそ、理解できなかった。

 彼の部屋に入った瞬間の違和感、嫌な匂い、不安が漂う空気。私の中にあったのは、ひとつ恐怖だけ。何故かはわからないけど、あの刹那、予感してしまった。

 彼は私のことを全て受け入れてくれた。全てわかってくれた。何もかも全部。でもきっとそれは、彼の限界を超えるほどの苦労や勇気が必要だったのだろう。だからこうなった。私の吐いた嘘さえ、彼が飲み込んでくれていたから。

 嘘ではない、彼を心から愛したこと。嘘ではない、彼の言葉に心底喜んだこと。嘘ではない、彼と過ごした毎日。嘘ではない、彼との思い出全部。嘘なんかでは、なかったのに。

 たったひとつの私の嘘が、全てを壊した。彼を殺した。

 目の前にぶら下がっている彼を見て、不思議と涙は出なかった。こんなにも愛していて、こんなにも失いたくないと思っていたけど、消えてしまえばそこに残るのは虚無だけで――まだ実感がない、とも言い換えられるかもしれない。放心しながら見つめることしかできなかった。

 彼が下ろされてくっきりと見えるようになった真っ赤な痕は、美しいとすら思ってしまう。どんな靴も、どんな服も、どんな髪型も似合う彼には、こんなものまで似合ってしまう。

 頬を伝う涙が、私を現世へと連れ戻した。あのとき私の肩をさすったのは、私の背中を撫でたのは、私の頭に手を乗せたのは、私の涙を拭ったのは、私のことを抱き締めたのは、誰だったろう。

 あぁ、怒らなければよかった。「あの日のあの花をどうして忘れたの」なんて。あぁ、言わなければよかった。「あなたの雪雫になりたい」なんて。

 

く【首筋】嘘が見え隠れする、または縄の跡が一番美しく残る場所

 

カクヨムく【首筋】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「君」

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 愛の形なんて、たぶん人それぞれ。私みたいに溢れてくる言葉を彼に囁くことも、彼みたいに言葉にはしなくても行動で示すことも、同じ愛。好きだと伝えたり、手紙を書いたり。手を繋いだり、抱き締めたり、キスをしたり。プレゼントを渡したり、サプライズをしたり、毎日を記念日にしたり。

 でも、それだけが愛だなんてのは無粋だと思う。だってそうでしょ? 人によって全く違うんだから。他にも愛し方なんてたくさんあるし、愛されてると思ってたのにそれは勘違いだった、なんてこともたくさんあるはずだから。

 もしかしたらそばにいるだけで愛を示しているかもしれないし、もしかしたら殴ることや蹴ることで愛を示すこともあるかもしれない。困らせたり、泣かせたり、怒らせたり、殴らせたり。ハッピーなことが全部愛な訳じゃないってこと。他人から見たらアンハッピーでも、当人は幸せかもしれないってこと。

 ──つまり何が言いたいかっていうと、私の愛し方も文句つけられる筋合いはないってこと。

 彼は私にプレゼントはくれないし、手も握ってくれない。ハグだってキスだって、その先だってまだしたことない。それに言葉を交わすことが一週間以上ないことだってある。愛されてないのかも、って何度も思ったし、何度も泣いた。でもこれが私たちのあり方なんだって、彼がそう言ってくれている気がして、私はこれで納得してるの。

 別に悲しくないよ。私が好きだって伝えて彼に嫌そうな顔をされても。私の手紙を彼が破ってるのを見ても。私があげた贈り物がゴミ箱に入ってても。一緒に帰ろうとしてるのに早足で逃げられたり、走って行方をくらましたりされても。何も辛くないし、苦しくない、怒ったりしないよ。

 だって私、彼のことが大好きだから。

 今日も彼を待ち伏せしてる。高校が終わって、チャイムが鳴って。彼は帰宅部だけど真面目だから、図書館に寄ってから帰る。そう、この時間。カウントダウンしてもいい。だって私が彼の出てくる時間を間違えたことなんて一度もないから。ほら、出てくるよ。

 そしていつも二人か三人で靴箱まで来るけど、彼らは帰る方向が違う。つまりそう、今私がいる方に彼が歩いてくる。大丈夫、彼は私に気付いてくれるはず。いつも冷たい瞳ではあるけど、私を見てくれるもん。

 そういえば今日は靴箱に十枚の手紙を入れたんだ。読んでくれるかな。いつも通り差出人を見て破り捨てるのかな。

 遠くで別れの挨拶が聞こえる。「じゃあ、また明日な」と。彼の声は綺麗で、よく通る。校門近くにいる私の耳にも届くくらい。バイバイ、と手を振るのが見える。あんなに大きくて強そうでかっこいいのに、友だちには手を振るなんてかわいい人。そのうち私にも振ってくれるようになるのかな。そうだったらいいな。

 彼の足音がこちらに伸びてきて、私も準備を始める。今日こそはしっかり気持ちを伝えるんだ。好きです、って。私ともっと愛し合いましょう、って。ワゴン車の窓を全部閉めてから、横開きのドアを開ける。右手のハンカチを力いっぱい握ったまま。

 彼が車のすぐ隣を通った瞬間、私は外へ出て、ハンカチを彼の顔に押しつける。やめろ、離せ、なんて抵抗をしているけれど、これももしかしてあなたの愛の表現の仕方なのかな。私、嬉しいよ。

 好き、大好き、愛してる!

 カクン、と全身の力が抜けきった彼を抱き締めて、後部座席に寝かせる。こんなに寝顔が美しいなんて聞いてない。こんなに身体がたくましいなんて知らなかった。今日は眼鏡をかけてるんだね。お肌が綺麗だね。彼の顔を両手で包む。

 あぁ、危ない。ちゃんと家に連れて帰ってから、私の気持ちを伝えてから、彼の心を聞いてから。愛し方は人それぞれ。これが私の愛し方なんだって、言い聞かせてあげないと。

 

き【君】「私」を支え、また狂わせるもの

 

カクヨムき【君】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「影」

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 夜は嫌いだ。辺りが真っ暗で、その闇に誰かがいるように錯覚するから。窓の外から覗いてくる夜闇が、私を嗤っているような気がするから。今日もひとりで泣く夜が辛い。

 全部私のせいだ。朝スマホのアラームが鳴らなかったのは、設定を直すのを忘れていたから。データ入力のミスがあったのは、焦っていたから。お昼ご飯がなかったのは、お財布を忘れたから。あのとき転んだのは、堅苦しいスーツやヒールにまだ慣れていなかったから。コーヒーを先輩にかけてしまったのは、靴擦れを起こしていたから。

 本当はわかってる。これら全部私のせいじゃない。みんな私を嫌っているから、私をいじめているの。勝手にスマホをいじられて、作った文書を書き換えられて、鞄から財布を抜かれて、足もかけられて。散々だ。違う会社に勤めたかった。けれど面接に落ちたから、仕方のないこと。

 私の何がそんなに気に食わないのかわからないけど、社内の全ての人間に悪意を向けられているのは確か。私が何をしたっていうの。信じられない。

 窓を開けたままだったのか、カーテンが風をはらんで揺れた。向こう側に私を嘲笑う黒が見える。夜は嫌いだ。どんなところでも幻が見える。濃い闇が私を責めてくる。「お前のせいだ、馬鹿なお前のせいだ」なんて言葉で私を潰そうとしてくる。

 怖くてたまらない。何処にだって私の居場所はないから。実家に帰っても厳しい両親が叱ってくる。どうして逃げてくるの、どうしてこんなに出来損ないなの、って。もちろん会社にだってない。本当にお前は何も出来ないな、何をしたらこんな失敗をするんだ。友だちはもういなくなった。あんな田舎から上京してきたのは、私ただ一人だったから。画面の向こうにはいるのかもしれない。けれど、文字だけなんて真意が見えなくて、怖くなった。本当は嫌われているかもしれない、なんて考えながらやりとりをするくらいなら。連絡先は全部消して、アドレスも変えた。私はひとりぼっち。

「ひとりなんかじゃない」

 風に乗って入ってきた声は、少し不気味で不安をあおるようだった。でも私を包んでくれるこの声色は、どこか温かくて、夢を見ているような感覚になる。

「こちらへおいで」

 顔を上げて窓の外を見てみる。誰もいない。なのに何かが手招きしている、そんな気がする。私には見えない何かが、見えてはいけないものたちが、私を呼んでいる。

「らくにしてあげる」

 楽になれるならそれでもいい。きっとヒトではないものに呼ばれているのだろうけれど、こんな地獄みたいな人生から逃げられるならなんでもいい。結い上げていた髪はぐしゃぐしゃで、数日前にアイロンをかけたはずのこのブラウスもボロボロ。きっとメイクもさっきの涙で中途半端に落ちていて、目も腫れている。こんな醜い人間、私しかいない。

「こっちはたのしいよ」

 脳内で上映が始まった。いわゆる、走馬灯、なのかもしれなかった。

 その中で私は、笑っている。懐かしい友人たちと、愛すべき兄姉たちと、片想いだった彼と、微笑み合っている。もうやめて、もういいよ。そんなもの、ただのマボロシにすぎないのに。現実に起きてはいない夢物語なんだから。

 手の甲で濡れた頬を拭い、裸足を引きずりながら誘惑の場所へと進む。暗くて何も見えないトンネルの奥深く。あれ、こんなところにトンネルなんてあったんだっけ。まぁ、いいや。

 赤い光が差し込む出口付近、見覚えのある女性が目を細めているのが見えた。

 

か【影】どこにでもいて、嘲笑ってくるもうひとつの自分

 

カクヨムか【影】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「大空」

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 真っ赤な太陽に見下されながら、私はただひとり、燃えるようなアスファルトに寝転がっている。自然が作り出したこの鉄板の上で、昔よく歌われていたたい焼きの気持ちになるのだ。

 しかし暑い。暑くてたまらない。

 首の向きを変え、右を見てみようが、左を見てみようが、景色は変わらない。蜃気楼に惑わされるばかり。そこにそれがいるように思っても、手を伸ばしたって届かない。だって本当はそこには何もないのだから。

 ため息をひとつ、そいつに投げつける。ぶつかりはしないと知りながら。

 どうしてこんなことになったのだったか。もはや思い出せる範囲内に原因を見つけられない。忘れてしまったのではない、悩みすぎて結局どれが何なのかわからなくなっただけだ。どっちにしろ、他人に言わせればこんなもの、小さい悩みにすぎないのだろう。私にこんなことまでさせたその悩みは。

 大の字になったまま見上げた青は、どこまでも広く、どこまでも続いていた。ふわり、と雲がこの顔を覗いては流れて消えていく。私のことなどどうでもいいと言わんばかりに。

 しばらく経ってから覗き込んで来たのは雲ではなく、人間の顔だった。

「どうしたの、こんなとこに寝ちゃって」

 こいつは高校生になって初めて出来た友人で、きっとこの後もいつまでも友人だ。どうせ私のことなんて、偶然同じクラスで偶然隣の席になっただけの女子としか思ってないのだろう。

「こんなときにはこんなところに寝たくもなるでしょ」

「どんなときなんだよ」

 ふにゃっと笑ったその顔は、あの日初めて話しかけてくれたときとほとんど変わらない。変わったのは私の方。私の気持ちだけ。どうせあなたも蜃気楼。

「悩み悩んでおかしくなりそうなとき、かな」

 彼の瞳から少しだけ視線をずらして、太陽で目を焼く。どうにかして私という存在が消えてしまえば、悩むこともしなくてよくなるのに。

 いつの間にか彼は転がっている私の隣に腰をおろして、私と同じくこの青を見上げていた。

「何、悩んでるの? 俺に相談してみれば?」

 その声は本気で私のことを心配し、ひとりの友人として助けてやりたいという彼の心が見えるようだった。でも私が求めている救いはそんなものではない。あなたとの時間ひとつで元に戻れるようなことではないのだ。

「んー、考えとく」

 君が悩みの主な原因なんだけどな、とは言わない。言えない。もしも言えたなら、楽になれたのかな。

 あなたがこの私の腫れた心を作った。私は最初はこんな人間だった訳ではなかった。このため息と一緒に全部吐き出してしまいたい。くだらない悩みも、ネガティブな心も、あなたへの気持ちも、何もかも全部。

「そっか」

 その言葉に込めたのは、どんな感情なの?

 聞けるようには、たぶん一生ならない。

 

お【大空】見上げたところで、自分が小さく見えるだけ