たぴ岡文庫

今宵も語る、どこかの誰かの物語

小説「首筋」

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 素敵な彼氏ができた。

 いわゆる塩顔の彼は鼻梁が美しく、背も平均より十数センチ高い。オシャレのセンスも抜群で、そこらの俳優やモデル、アイドルなんかも軽く凌駕してしまうレベルだと思う。何を着ても似合ってしまうからそう思わされるだけなのかもしれないけど、とにかく見た目がいい。

 勿論、彼の素晴らしいところは外見だけではない。内面だって綺麗なのだ。例えば、一昔前みたいな「女性は三歩後ろを歩け」なんて主張をしたりはしないし、「俺の言うことが聞けないのか」なんて怒鳴ったりもしない。優しすぎるくらい、柔らかく接してくれる。大切にしてくれていると肌で感じる。いつだって笑顔で、自分は今幸せだと教えてくれる。

 ――だからこそ、理解できなかった。

 彼の部屋に入った瞬間の違和感、嫌な匂い、不安が漂う空気。私の中にあったのは、ひとつ恐怖だけ。何故かはわからないけど、あの刹那、予感してしまった。

 彼は私のことを全て受け入れてくれた。全てわかってくれた。何もかも全部。でもきっとそれは、彼の限界を超えるほどの苦労や勇気が必要だったのだろう。だからこうなった。私の吐いた嘘さえ、彼が飲み込んでくれていたから。

 嘘ではない、彼を心から愛したこと。嘘ではない、彼の言葉に心底喜んだこと。嘘ではない、彼と過ごした毎日。嘘ではない、彼との思い出全部。嘘なんかでは、なかったのに。

 たったひとつの私の嘘が、全てを壊した。彼を殺した。

 目の前にぶら下がっている彼を見て、不思議と涙は出なかった。こんなにも愛していて、こんなにも失いたくないと思っていたけど、消えてしまえばそこに残るのは虚無だけで――まだ実感がない、とも言い換えられるかもしれない。放心しながら見つめることしかできなかった。

 彼が下ろされてくっきりと見えるようになった真っ赤な痕は、美しいとすら思ってしまう。どんな靴も、どんな服も、どんな髪型も似合う彼には、こんなものまで似合ってしまう。

 頬を伝う涙が、私を現世へと連れ戻した。あのとき私の肩をさすったのは、私の背中を撫でたのは、私の頭に手を乗せたのは、私の涙を拭ったのは、私のことを抱き締めたのは、誰だったろう。

 あぁ、怒らなければよかった。「あの日のあの花をどうして忘れたの」なんて。あぁ、言わなければよかった。「あなたの雪雫になりたい」なんて。

 

く【首筋】嘘が見え隠れする、または縄の跡が一番美しく残る場所

 

カクヨムく【首筋】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)