たぴ岡文庫

今宵も語る、どこかの誰かの物語

小説「積み木」

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「それではアリサさん、スタンバイお願いします」

 控え室に迎えに来たスタッフは、微笑んで私を呼んだ。隣に座っていたマネージャーは誇らしげにこちらを向いている。私はこれから夢のステージに立ち、それから夢のトロフィーを受け取るのだ。

「アリサ、おめでとう」

「ちょっと、まだ受け取ってないのよ。それにあなたのお陰でもあるんだから」

「……ありがとう」

 ふふ、と目を細めて彼女の嬉しそうなその顔を瞳に焼き付ける。これ以上ないくらいに私の心は躍っている。

 子役として活動を始めたのは、いつからだっただろうか。最初は親に言われたからやっていたことだったのに、そのうち私自身がお芝居を好きになった。自分ではない誰かを演じることを楽しいと思うようになった。監督やプロデューサー、マネージャー代わりの親に怒鳴られることだってあったけど、それでも私は演技を愛し、演技に生きた。

 中学校に進学する頃には、クラスメイトが私に遠慮していたのか、友人もできなかった。教師だって私との会話を避けていたように思う。女優になることが夢だと公言していたし、人を寄せ付けない雰囲気があったのも自覚はある。けれどこんなことなら、普通の女の子になれないなら、そんな夢はいらないと思ったこともあった。

 高校に入ってからは芸能を中心に学んでいた。同じ志を持つものばかりに囲まれて、初めての親友もできた。彼女はアイドルを目指していたらしい。それを諦めたと聞いたときは私も涙した。彼女は大きな事故で両足を失ったのだった。

 親友を失った私は挫折した。母が持ってきた大仕事は、学園者の主人公だった。監督は私の演技に惚れ込んでオファーしてくれたらしい。しかし彼に今までの全てを否定された。何年やってきたのだ、ずっとそんなことをしていたのか、全くもったいない、才能ないくせに。全てあの人に言われた言葉だ。

 涙を流し尽くし、枯れてしまいそうになった頃、電話が鳴った。彼女からだった。

「アリサ、あなたならできる。私、あなたのマネージャーになるから」

 その言葉をくれた彼女は今、隣で微笑んでいる。

「げほっ、ごほっ」

「だ、大丈夫?」

「いいの、気にしないで。心配しないでカーペットを歩いてきて、私も早く見たいのよ」

 最近風邪を引いたらしい彼女は、いつも咳をしている。薬を飲んでいるらしいが、良くなっているようには思えない。

「うん、ありがとう。行ってくるわ」

 控え室を出て、スタッフに導かれるままにステージへの通路を歩く。

 本当に彼女は大丈夫なのだろうか。本当に、ただの風邪なのだろうか……。

 私のスピーチが終わり、式も終わり、全ての出演者に挨拶を終えた私は、彼女に会いに行く。きっと喜んでくれる。きっと笑ってくれる。きっと全てを包んでくれる。早く会いたい。早く、笑顔が見たい——。

 

 次に彼女に会えたのは、病室だった。

 その顔には笑顔もない。悲しみもなければ、怒りもない。あのときの喜びすらない。感情が全てなくなっている。温度もない。冷たくなって、ただそこに眠っている。

 私は、間違えたのかな。あのとき、夢を叶えることよりも彼女を優先するべきだったのかな。ねえ、教えてよ。問いかけてみても、涙を頬に落としても、彼女は目覚めない。

 夢を叶える代わりに失ったものは、私には大きすぎた。

 

つ【積み木】結局崩さなくてはならないもの

 

カクヨムつ【積み木】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「散る」

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 貴方はいつも私に言って下さいました。すぐに帰って来るからと。お前は何もしないで只僕を待っていれば良いと。だから私は貴方の為に、貴方一人をずっとお待ちしていたのです。私には貴方以外の事を考えることはできませんでした。だから私は貴方の事を待ち続けていたのです。

 貴方が最後に、行って来ると私に告げたのは何時でしょう。貴方が最後に、この部屋に足を踏み入れたのは何時でしょう。貴方は本当に、帰って来るのでしょうか。嘘を仰った事は一度たりとも無かった。だから私は貴方を最後まで信じ抜きたいのです。

 何時帰って来ても良いように、私は今日も夕餉の準備をしました。私の座る向かい側には貴方の食器が並んでおり、まるで二人で食事をしているかのような錯覚に陥る事もしばしばあります。それでも本物の貴方にお会い出来ないのは寂しくて堪りません。どうか、どうか帰って来て下さい。何時までも、此処に居りますから。

 部屋の隅に寒咲き菖蒲が悲しそうに在ります。あの子はもう別の子ですが、何時か貴方は下さいましたね。お前に似合っていると、そう言って菖蒲を渡して下さいました。あの日は今日のように雪が降っていた日でした。あの日が私の誕生日であった事を、貴方はご存じだったのでしょうか。あれは私への贈り物だったのでしょうか。貴方が帰ってきたら、遅くなった理由と共にこれも聞こうと思います。

 初めて下さった寒咲き菖蒲は、一週間以内に私が足を引っかけてしまって、鉢から飛び出てしまったのでしたね。あれ以来、買わないと決めていましたが貴方が恋しくて、つい、貰って来てしまったのです。お許し下さい。貴方がこれを見たら怒るかもしれません。けれど、貴方という存在を感じられる物を近くに置いておきたいのです。貴方が帰って来る事を信じていたいのです。ごめんなさい。

 ヒラリと菖蒲の花弁が落ちました。こんなに寒い夜なのに、窓を開けていたのが悪かったのでしょうか。悲しいですね。こんな事も貴方と悲しみたかったのに、私はこの部屋に只一人。貴方を待つばかり。此処には居ない貴方に話しかけては袖を濡らすだけ。

 ねえ、どうして帰って来ないのです。私が悪いのでしょうか。私の何が良くなかったのでしょうか。お教え下さい。どうかお願いですから、私を独りにしないでください。貴方が居なくては、私は何処を歩けば良いのです。私は何が為に生きなければならないのです。私の全ては貴方が為に。だから、早く、その両腕で私を暖めて下さい。

 隣人の言う、貴方についてのお話は信じておりません。貴方が帰って来ないなど、私は信じません。貴方は、貴方はもうすぐにでも帰って来るのでしょう。そうして私の傍で笑ってこう言うのです、良くここまで待っていてくれたな、と。そうでしょう、そうなのでしょう。

 貴方が居なくなってもう五年になるなんて、そんな事は理由にはならないのです。最後に見た貴方のお顔には緊張が走っていて、こんな未来を見つめていたなど、貴方の口から聞かないと納得いきません。だから、どうか、早く、帰って来て下さい。

 

ち【散る】最も寂しさを感じる瞬間のひとつ

 

カクヨムち【散る】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「太陽」

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 すっかり暗くなってしまった窓の外を見て、ため息をつく。最近はこんなことばかりだ。別に年末でも新年度でもないのにこの会社はいつでも忙しい。いわゆるブラック会社の部類に入るのではないだろうか。詳しく調べたこともないし、仕事に疲れている人間はよくそう言うのだが。

 時計を見ると深夜二時を回ろうとしているところだった。ふと冷静になって、私はどうしてこんな時間まで会社にいるかと疑問がよぎる。しかしそんなことは考えてはいけない。たぶん、自分の置かれている状況を冴えている頭で思考してはいけないのだ。理解してしまえばこんな現状に耐えきれなくなってしまうから。このまますり減った脳で生きていかなければ壊れてしまうから。

 外に出ると、もう夏になるというのに夜の風が冷たく刺さる。さすがにクールビズが解禁されたからといって半袖で来るもんじゃないな、なんて頭をかく。

 車に乗り込んで、エンジンをかける。今から帰って、夜食を食べて、それから睡眠を取って。出社は六時だから、実際このままこの車で夜を明かした方が楽ではあるかもしれない。しかしオンとオフの切り替えもできなくなってしまう可能性もあるし、そうなってしまえば私はこの世界の歯車となって回り続けるだけの、人間ではない何かに成り下がってしまう。それは嫌だ。

 それに私には家族がある。五つ年下の妻と、来年度小学生になる小さな双子がある。私は父として家族の温かさに触れる権利があるだろう。こんな人権などないかのような会社に勤めていようが、家族を求める権利だけはあっておかしくない。

 家に着き、小さく「ただいま」と呟く。帰りが毎日この時間だ。私が知る家族は全て寝顔のみ。愛する妻の、愛おしい娘たちの笑顔を見たことがない。ともに笑って、何かを楽しんで、たまには叱って、涙を流して、それでも結局笑いの絶えない家族。それが私の理想だった。まぁ、そんなものにはほど遠い人生だが。

 妻には転職を勧められている。弁護士の友人ももしもの時は助けるとい言ってくれている。私は周りの人間に恵まれている。きっと上手く会社から逃れられる、そう思っていた。私だってそうしたかった。しかしそれは不可能。誰に何を言われようと、できないのだ。

 いつの間にか眠っていたらしい。カーテン越しに眩しい光が見える。

 いっそ心中でもしようかと思ったこともあった。妻と子を残してこの世を去ろうか、それとも全てを道連れに消えてやろうか。だがそんな感情は捨てた。こんなにも愛しているのに、私とは違って未来があるのに、それなのに台無しにしてしまうのは重大な罪になる。まぁ、一度でも願ってしまったのだから大罪人なのだろうが。

 この美しい世界が回っているのは私の力もあるのだろうか。そうだとしたら、少しくらいは私の努力も浮かばれる。いつになれば私は父として、人間として幸せを享受できるのだろうか。太陽の下、大きく両手を広げて深呼吸した。

 

た【太陽】美しいもの、また私たちの生の足掻きを見守ってくれるもの

 

カクヨムた【太陽】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「想像」

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 この間手に入れたばかりの鉛筆をカッターで削り、新品のノートを開く。目を閉じて、彼に問いかける。

 ――君はどんな人間なんだ? それとも人間ではない?

 そうしてみれば、瞼の奥の奥に彼が見えてくる。

 長身で寝癖ばかりの短髪。眼鏡はかけているが、度は入っていない。きっと目つきの悪さを隠すための伊達眼鏡なのだろう。目の下にはくっきりとくまができていて、頬も少し痩けているように見える。見るからに不健康そうだ。白いがヨレヨレのシャツを着ていて、下はタイトな印象の茶色いズボン。靴はすぐに着脱できるサンダル。面倒くさがりなのかもしれない。頭をかきながら、その鋭い目つきでこちらを睨んでいる。

 彼はたぶん、ただの人間だろう。そしてきっと、ただの大学生だ。恋愛が下手で、素直に気持ちを口にすることができないタイプ。いわゆる天邪鬼というやつだろう。しかしきっと頭脳は明晰で、一部の人間からは憧憬の対象とされている。

 ――君は何が好きだ?

 彼はひとつため息をつくと、どこからか現れたパイプ椅子に腰掛ける。なるほど、彼は全てが退屈でたまらないらしい。大学の講義も興味のある分野はもとからなかったというところか。それに勉強が苦痛ではないみたいだ。たぶん彼は講義を聞くだけでほとんどの内容が頭に入るタイプなのだろう。それじゃあ確かにつまらない。好きなものはない、ということか。

 ――だが君にはひとつ秘密があるはずだね。それはどんなことだ?

 

 私はどこまでも彼に質問を続ける。彼について知らないことをなくす。彼の一番の理解者になるために。度々目を開いては、質問の答えをメモする。たまに良い表情を見せたときは、それもスケッチする。彼という人間を私の中に生きさせる。

 いつものように時間を忘れてそんなことをしていたら、もう月が高く舞っていた。夜か、なんて呟いて私はベッドに入る。

 底を尽きた食料、無音の世界。私にはもう紙とペンしか残されていなかった。水道をひねってみても、水が出るとは限らない。運良く私の家はまだ綺麗な水が出る。というか、運が良かったからここまで生きて来られたのだろう。選ばれたのはもしかしたら隣の家だったかもしれないし、もっと別の場所だったかもしれない。

 私はたったひとりだ。孤独だ。だから昔出会った人間を、もしくは私の中にしか存在しない人間を脳内に呼び起こし、こうしてニセの歴史を作る。そうでもしないと私の心は折れてしまいそうだった。いや、もしかしたらもう折れているのか。だから食料を探すよりも優先して、こんなことをしているのか。

 腹が鳴る。窓の外には荒廃した日本が見える。どうして私だけを置いて人類は消えたのだろう。久しく流していなかった涙の温度を感じた。

 

そ【想像】彼は私を助ける

 

カクヨムそ【想像】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)

小説「世界」

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 今日も世界は終わっていく。茜色に染まった空の端から、じわじわと燃えて灰になる。ただの人間である私たちは、それを見ていることしかできない。世界が終わるのを止める術なんてない。

「午後六時をお知らせします」なんて声を毎日テレビやラジオなんかで聞くようになった。これはつまり、今日はあと一時間しか残されていませんよ、という意味だ。毎日午後七時になれば世界は終わるのだから。

 十年前、世界の終わりを初めて体感した私たちは、集団で同じ夢を見ただけなのかと勘違いした。さすがに一週間も同じことを全世界が繰り返していたら、これは現実であると気付ける。

 科学者は努めて原因を解明しようとし、不可能を知り、そして絶望した。そういえば、あれは傑作だった。画面の向こうで有名な科学者が泣きながら「私たちはこの終焉のループから抜け出せません。申し訳ございません」なんて叫んでいたあのショーは。

 あれ以来、人間は好き勝手生活するようになった。どうせループするんだから、どうせ今日も世界は終わるのだから、そう言って。ある女は愛しい人に告白し、ある男は欲しいものを欲しいだけ購入し、ある子どもはいじめっ子に殴りかかり、ある年寄りは杖を投げ捨てて走り回った。そしてまた『今日』を迎えた。

 しかし私は気付いた。『ひとつ前の今日』で失くしたものや埋めたもの、壊したものは『今日』も失われているし埋められているし、壊れている。完全なループという訳ではないらしい。私の身体も着実に老いていっているのだろう。昨日まで見えていた看板が見えなくなっていた。

 しかしもうひとつ私は気付いた。人間は例外なのだと。もしあの建物の屋上にいる人が今飛び降りたとしても、彼はまた『次の今日』も生きる。あの路地裏にいる刃物を持った女がしっかりと相手の心臓を突いたとしても、被害者は生き返る。とにかく、人為的な死は神が認めてくれないらしい。病死や衰弱死なんかは私の興味を引かないのでよく知らないが。

 だからこの『今日』も私は考える。どの方法で死を選べば、神に抗えるのか。どうしたら神を殺せるのか。

 こんなことを言うなんて、昔は思わなかった。熱心なキリスト教徒ではないにせよ、「神を殺す」なんて罰当たりにもほどがある。だけど、きっとこれが正攻法だ。この狂った現状から脱出するためには、神を殺す必要がある。私は確信している。

 罪だ何だと言われようが関係ない。私は私の生きる道を作りたい、それだけ。

 

せ【世界】彼は私たちを見捨てる

 

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小説「鈴」

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 少女は小さく輝く金色の鈴を見つめていた。それは祖母からもらった大切な宝物であり、彼女のお守りでもあった。チリンチリンと涼しげな音を鳴らすそれを、どこに行くときも肌身離さず持ち歩いていたのだ。

 つい二年前に亡くなってしまった祖母は、少女をとても愛していた。食事の幸福感も、親に愛される喜びも知らない少女を、心の底から愛していたのだ。荒れ果てたリビングの掃除をし、汚れた食器だらけのキッチンを片付け、破れたカーテンも絨毯も綺麗に編み直して、「家」という存在を教えた。深夜にしか帰って来ない母親の代わりに「ママ」を教えた。少女はそんな祖母のことが大好きだった。

 

 ある朝の学校へ行く途中、人気のない路地裏に黒猫を見つけた少女は、ランドセルにぶら下げている鈴を鳴らしながら彼にゆっくりと近付いていった。朝だというのに真っ暗なその小道は不気味な程静かで、背中の方に広がる街とは全く別の世界に迷い込んだかのような感覚になる。少女は少し怖くなりながらも、黒猫を追う。

 行き止まりについた彼は、少女の方に向き直って、ちょこんと座った。

「ねこちゃん、あそびましょ」

 少女はその細くてすぐに壊れてしまいそうな腕を伸ばして、彼に触れようとする。しかし黒猫はにゃあとひとつ鳴いて、塀の方に駆けていく。

「あ、あぶないよ!」

 リンリン、と鈴がいつもより大きな音を響かせる。するとどうだろう。黒猫は壁の中へと入り込んでいった。少女は呆気にとられて、立ち尽くす。

 この壁がどこかに繋がっているなんて、小学校では聞いたことなかった。ウワサ好きのあの子も、怪談好きのあの人も、そんなことは喋っていたことがなかった。これは、私が初めてになれるかも。少女はゆっくりと黒猫の消えた行き止まりへ進む。

 何の変哲もない、ただのレンガ。これがさっきは水のように柔らかくなって、彼を受け入れた。どうしてだろう。

 遠くから青い鈴の音が聞こえる。それ自体が見えた訳ではないが、何となく、青という色彩を感じた。それに応じてか、少女の赤いランドセルにさがっている金色のそれが光り始めた。

「これって……」

 荷物をおろして、その光だけを手のひらに乗せる。壁を見つめながらそれを鳴らしてみれば、ただのレンガだったはずのそれに波紋が広がる。引き金はこれだ。少女は理解して、ひとつ頷く。

「おばあちゃん、私にゆうきをください」

 波紋に突撃するように、少女は全速力で走る。そして鈴を鳴らした。

 

す【鈴】美しい音色と共に異世界へとさらって行くもの

 

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小説「幸せ」

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 男は夜闇のようなマントの中で小さく震えていた。目の前には真っ赤なベッドと、それに横たわる年老いた女がいる。男はそのベッドの真横に置かれている椅子に腰掛けて、しわだらけの女の手を辛そうな表情で強く握りしめる。

 わかっていた、男は小さく呟いた。

「全てわかっていたつもりだった。お前が先にいってしまうなど、簡単なことだ。理解していたはずなのだが……」

 ぐっと痛みに耐えるような表情で、男は苦しそうに息を吐く。

「お前はもう、死んだのか?」

 返事など来ないとわかっていても、美しいその表情に喋りかけてしまう。寝ているだけのように見える。頬をつついてみれば「やめてくださいな」なんて微笑んでくれるかもしれない、と勘違いさせられる。

 男は立ち上がり、その手を離した。そうしてゆっくりと、彼女に口づけをする。おとぎ話のように自分の姫は起きないだろうかと、望みをかけながら。当然、女が目を覚ますことはない。しかし何となく、微笑んだように見えてしまったのは、男の心の内を投影しただけなのだろうか。脳が勝手に作りだしただけなのだろうか。男は悲しみを含めながら微笑んだ。

「私はね、嬉しいのだよ。自分にもまだ感情があったのだと知ることができて」

 男は涙をこぼすまいと、天井を見上げながら部屋を歩き回る。ふと目についた化粧台の方へと足を動かす。ここでいつもお前はお前を作っていたのだね、と男は鏡に手を触れる。ふっ、と自嘲気味にひとつ笑って、それに背を向けた。それは、鏡に映った自分の哀れな表情ではなく、鏡に何ひとつ映らない自分自身への嘲りであった。

「私がお前と同じであれば、こんなことはなかったのだろうか」

 男の頬に小川が流れる。

「忘れていた。これが悲しみか。これが涙か」

 左手でそれを拭い、ハッと気付いたように指を見つめる。薬指に光るのは、小さな宝石のついた指輪だった。あの日、女と交わした契りを思い出す。死んでも一緒にいようね、彼女はそう言った。それにどんな言葉を返したのだったか、男には思い出せなかった。彼女を愛していたことも、些細な幸福も全て昨日のことのように覚えているのに。

 男は赤い宝石のついた指輪を外し、それを飲み込んだ。顔をしかめながらも、内蔵へと押し込む。

「お前は以前、子が欲しいと言っていたな」

 ゆっくりとカーテンを開きながら、男は言葉を紡いでいく。

「私は知っていたのだ。私とお前の間では子ができないことを」

 眩しいくらいの陽の光が入ってくる。見下ろした街は人で賑わい、喜ばしい叫びが鼓膜を震わせる。ありふれた、しかし美しい昼だ。

「お前を私の眷属にしたならば可能だったかもしれない。しかしそれは――」

 さらさらと、音を立てながら男は徐々に灰になっていく。いつの間にか開かれていた窓から、風に乗って飛んでいく。

「私が嫌だったんだ。イザベラ、お前はお前のままが一番美しい」

 そう言うと、男の存在は消え去った。ただひとつ、ルビーの指輪のみを残して。

 

し【幸せ】誰もが求めるそれは、蜃気楼

 

カクヨムし【幸せ】 - 五十音短編集(たぴ岡) - カクヨム (kakuyomu.jp)