小説「幸せな悪夢」
*人間を食べる描写があります。ご注意ください。
不気味な夢を見た。気味が悪くて吐き気がする、でもその中にも大きな幸福が横たわっているような、そんな悪夢。
内容はほとんど覚えていないのに、その不快感は鮮明にこの喉に残っている。首を絞められるような感覚が、何か異常な物がその道を通ったような感覚が、確かにここに。
首元に手をやる。何ともない。おかしなことなんてひとつもない。バクバクとうるさい心臓の音が手のひらに伝わってくるだけで、他には何もない。
そうだよ。別に、こんなことよくあるじゃないか。夢を引きずるなんてこと。
この前だって、夢の中で何度も目を覚ました。今でもたまに、まだ囚われているんじゃないかと思うことがある。今のこの状態はきっと、そのときに似ている。ただ悪夢と現実の境界線が曖昧になっているだけだ。ただそれだけ。
パッと見ると、時計が示しているのは深夜一時。外は暗闇に包まれていて、部屋の電気も消えている。周りはただの闇で、何も見えない。今まで、何をしていたんだ? ほとんどのことを覚えていない。
荒かった呼吸を落ち着かせると、今度は酷い頭痛に襲われた。きっと本当は目を覚ましたときからあったのだろうが、混乱のせいで気付けていなかったのだ。割れるように痛い。その激痛とともにゆっくりと昨日の記憶が降ってくる。
休日の昼、病院から帰ってきた僕は、何をするでもなくだらだらと時間を潰していた。医者からくだされた診断には納得がいかなくて、もらった資料には目を通そうとしていなかった。そんな病に冒されているなんて、自覚もないし、症状もまだ出ていないから。まぁ、なんとでもなるよね、と軽くとらえてしまっているのは、あまり良くないことだってわかってはいるけど。
転がっていた僕の頭上からインターホンが呼ぶ音が聞こえてくる。もしかして世話焼きな母親か、それとも大家が家賃の催促に来たのか。しかし僕の予想はことごとく外れて。
「こんにちは、来ちゃった!」
なんていつも通りの声で、恋人はいきなりやってきた。
「いや、来ちゃったじゃないよ!」
「ん、何してたの?」
僕のことは何も気にかけず、グイグイと中へ入っていく。彼女らしいっちゃ彼女らしいけど、少しくらい遠慮ってものを知って欲しい。とは思っても、実際は何でも許してしまうから恋人ってのはすごい。
「まぁ、何もすることなくってね。ずっと寝てた、かな」
すっとソファに座った彼女は、ニコニコしながら僕を待っている。
はぁ、とひとつため息をついたのは、その表情が愛おしくてたまらなかったから。彼女のことが好きで好きで、溢れてしまいそうになったから。狂ってしまいそうなほどに愛しているから。
この感情はきっと彼女にバレちゃいけない。バレてしまえば、僕は彼女に顔を向けられなくなる。もう会えなくなる。だって僕がそんな人間だなんて知らないだろうし。そうして結局彼女が離れていってしまったら僕は、もう生きることすらやめてしまうだろう。だから、うまく隠さないといけない。
溢れて出そうになった愛の言葉を、口の中でかみ砕く。
「ねぇねぇ、なんか飲みたいなぁ、なんて」
「ちょっと君ってば、来てすぐに飲み物要求するの? 本当に何しに来たのさ……」
「そんなこと言って、本当は嬉しいくせに」
あたり前じゃないか、この野郎。なんて心の奥で言いながら冷蔵庫を探る。
この際、別にどんな物だっていいだろう。彼女が勝手に来て、勝手に注文したんだから。それなら僕が起こす行動は、僕の勝手だろう? 僕らお気に入りの缶ジュースを二本持って、ゆっくりと彼女の方へ進む。
「ほら、これでいいでしょ」
彼女は上機嫌そうに缶をあけ、一口飲む。
「ふーん、いいじゃんいいじゃん!」
隣に座ろうと思ったとき、僕の手が震え始めた。何かに怯えている訳じゃない。ただ無意識で、それが意味するものが何なのかもわからない。自分のことがわからない。
もしかして、なんて考え始めて、嫌な予感が身体を駆け巡る。
「あれれ、座んないの?」
彼女が、おかしく見える。どこか、いつも通りじゃない。言い表すことはできないけど、何かがおかしい。いつもはこんなこと、ない。
「あぁ、いや……」
さっき昼飯を食べたはずなのに、お腹が鳴る。いや、空腹ということじゃない。でも何かを胃に入れないといけない気がする。その何かがソレでないといけないのは、気付きたくない。
目眩がする。グラグラする。貧血を起こしたみたいで、今すぐにでも倒れてしまいそうだ。平衡感覚はどこかへ消えた。今立っているのかすらもわからない。あれ、僕はどこにいるんだ?
「な、なんかおかしくない? 大丈夫?」
来ないでくれ。近づかないでくれ。おかしくなりそうなんだ。僕は君が大好きなんだ。壊れそうなくらいに愛してしまっている。もう死んだっていいくらいに。殺してしまいたくなるくらいに。
「ねぇ、どうしたの?」
発作は治まらない。
この先はどうしても思い出せない。幸福感の溢れる長い時間だったような気もするけど、耐えがたい刹那だった気もする。ただその真相は、頭痛に阻まれてしまって。
「って、じゃあ彼女は?」
もしかしたら僕が倒れるかもしれない、なんてときに一人帰るような心を失くした人間ではないはずだ。
あぁ、そうか。あの後、僕は気絶したんだ。それを看病してくれていた彼女は、そのうち疲れて寝てしまった。きっとそうだ。それなら彼女は、今もまだこの部屋にいるかもしれない。部屋を見回す。
何も見えなかった暗闇に、目が慣れ始めている。まるで電気が点いているみたいに、全てが、真実すらも鮮明に見えてしまった。
そこにあったのは、思った通りの看病のワンシーンなんかじゃない。僕がやってしまった罪の跡。部屋一面に広がるのは赤黒い染み。手のひらに残るのは彼女の、血――?
充満しているのはかぐわしい生臭さ、目の前にあるのは彼女だったモノ。食欲が止まらない。腹の虫が唸る。
「あっはは、そっか。そういうことか……」
あの医者の言ったことは、嘘なんかじゃなかった。もっと早く気づくべきだった。この病が僕にこうさせた。この病が彼女を消し去ったんだ。
でも、何故だろうか。幸せでたまらない。彼女への大きな愛を伝えられたから。恋しい彼女を手に入れたから。彼女とひとつになれたから。
「っはは、あはは!」
狂ったように笑いながら、ソレを口に運ぶ。
「誰だよ、こんなにうるさいの!」
壊れそうだ。
「僕だよ、俺なんだよ! あっはは!」
笑いすぎたのか、少し残った正気が働いたのか、僕の瞳からは涙がこぼれる。
「好きだよ、大好きなんだよ、君のことが」
まぶたの裏に、私もだよなんて微笑む彼女が見えた気がした。